From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

突如と来る虚脱感

こんなこと書いていいのかと思うんだけど、さっき来ました。虚脱感です。何もやる気がなくなります。

突然来ます。昨日から、ひどい頭痛がするのですが。

非常に虚しくなります。論理的な思考だけではなく、想像力もなくなります。

今はまだこれがかけるからいいけど、書けなくなりそうです。

時々こうなります。でも、寝ているわけにはいきません。

夫は、ここ数ヶ月、動けない状態です。抗鬱剤が効いていてくれるおかげで、自殺願望は消えていますが、非常に眠たいのです。肩の痛みもひどく、かなり強い痛み止めを飲み続けています。

政府の助けを得るにも、かなりの苦労があります。だからその手続きや情報集めができません。

こんなこと書いていいのかどうか解りませんが、誰かに言わないと、おかしくなりそうです。

すみません。

でも、似たような状況の人は、自分だけではないと、慰められるかもしれません。だから、書きます。

息子が心配です。性格が少し暗くなったようです。だから、音楽で自己表現することが出来るということは、とても重要なことです。

家に猫がいるのもいいことです。猫を見ると慰められます。

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美しい物を見た時の痛み

美しい物を見たり、聞いたりすると、痛みを感じるほど切なくなる。それを克服するために、何かを書いたり、絵を書いたり、詩を書いたり、音楽を作ったりする。

悲しい時も、それを克服するために、何かを書いたり、絵を書いたり、詩を書いたり、音楽を作ったりする。

どちらもとても辛いんだけど、その反面、ずっとこの痛みを感じていたいとも、思ったりする。

滅茶苦茶に、自分を追い込みたいとも思う。自分を痛めつけたくなる。

私はリストカットはしないけど、自分を痛めつけたいという気持ちはわかるような気がする。

でも、私は、プロダクティブな活動に、その負のエネルギーを変換したい。

芸術的表現には、それが本当に心から出るものであるならば、そういう力がある。

何かが、自分の中から生まれてきそうだと思った瞬間に、言いようもない幸福感を感じ始める。

この瞬間を発展させて、何かを制作し始め、それが出来上がった時に、生きていてよかったと思う。

芸術の役割とはそういうものだと思う。

職人技と芸術は全く異なる目的を持つ。職人を育てるのもいいけれど、すべての人が、本当の意味で芸術を楽しむ日が来ればいいなと思う。

 

 

 

 

今日の夕日

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大きなステンドグラスのようだった。

毎日違う。

きれいな空や、山や、海。

なぜ人間は汚いのか。嘘はつくし、言い訳をするし、他の人を傷つけたりする。

何かがおかしい。

Elephant in the room

誰も聞きたくない話題をelephant in the roomという。

本当は、とっても重要なことなんだけど、大抵の人は聞きたくないことって、たくさんあるよね。

Wikipediaでは、このイデオムについての起源をこう説明している。

Elephant in the room - Wikipedia

 

1814年 Ivan Andreevich Krylov (1769-1844)という詩人が、The Inquisitive Man(詮索好きな男)の中で、細かいことにはよく気がつくけれど、ゾウには気が付かなかったという男について描写していることが発端らしい。この、フレーズはドフトエフスキーのDemonsの中で引用されている...

 

大きすぎて、皆が取り組むのを嫌がる問題というのが、elephantということに、変わってきた。

いわゆる、聞いていても楽しくない、気持ちがふさがれるような話題なのかも知れない。

物事に真剣に取り組もうという心構えがないと、こういうことは話題にできないのかも知れない。

 

私はそういう話をしたいし、そういう話をしたい人間でい続けたい。そういう話を聞きたい。

本当にそうかというとわからないけれど、そうありたい。

 

 

T(Tau) for Tammuz

 アラビア語:تمّوز Tammūz; ヘブライ語 תַּמּוּז, 現代ヘブライ語 Tammuz, ティベリア式ヘブライ語 Tammûz; アッカド語 Duʾzu, Dūzu

 

 

Ezekiel 8:1-3King James Version (KJV)

And it came to pass in the sixth year, in the sixth month, in the fifth day of the month, as I sat in mine house, and the elders of Judah sat before me, that the hand of the Lord God fell there upon me.

Then I beheld, and lo a likeness as the appearance of fire: from the appearance of his loins even downward, fire; and from his loins even upward, as the appearance of brightness, as the colour of amber.

And he put forth the form of an hand, and took me by a lock of mine head; and the spirit lifted me up between the earth and the heaven, and brought me in the visions of God to Jerusalem, to the door of the inner gate that looketh toward the north; where was the seat of the image of jealousy, which provoketh to jealousy.

 

 

 

Ezekiel 8:14-16King James Version (KJV)

14 Then he brought me to the door of the gate of the Lord's house which was toward the north; and, behold, there sat women weeping for Tammuz.

15 Then said he unto me, Hast thou seen this, O son of man? turn thee yet again, and thou shalt see greater abominations than these.

16 And he brought me into the inner court of the Lord's house, and, behold, at the door of the temple of the Lord, between the porch and the altar, were about five and twenty men, with their backs toward the temple of the Lord, and their faces toward the east; and they worshipped the sun toward the east.

 

エゼキエル書

神の家で、女達がタンムズに泣いているという箇所が、確認できるだろうか。

TammuzのTが、キリスト教教会で使用されている、十字架であることが、言われている。

それは、イエスがはりつけられた、十字架ではないということだ。

 

Mattthew 27:40

40 And saying, Thou that destroyest the temple, and buildest it in three days, save thyself. If thou be the Son of God, come down from the cross.

 

the cross.の部分、ギリシャ語ではStauros (σταυρός)が使用されている。

Stauros - Wikipedia

上のリンクのKoine Greekの下に書いてあることが興味深い。

一部引用すると、

In A Critical Lexicon and Concordance to The English and Greek New Testament (1877), hyperdispensationalist E. W. Bullinger, in contrast to other authorities, stated: "The σταυρός" (stauros) was simply an upright pale or stake to which Romans nailed those who were thus said to be crucified, σταυρόω, merely means to drive stakes. It never means two pieces of wood joining at any angle. Even the Latin word crux means a mere stake. The initial letter Χ, (chi) of Χριστός, (Christ) was anciently used for His name, until it was displaced by the T, the initial letter of the pagan god Tammuz, about the end of cent. iv."

 

エゼキエル書描かれていた幻の情景は、聖書の神の家でTammuzを崇拝していた女性たち。

教会で十字架を拝む人々と、重ならないだろうか。

 

Tammuzを崇拝する人々を、同エゼキエル書の中で、神は実際どう感じていたかを、文脈から読み取ってみてはどうでしょう。

 

 

 

 

 

 

大切にしようとすると失いがちなもの

求めたり、大切にしようとすると失うものがある。

それは人間関係かも知れない。

幸福だったりする。

それ自体は、人生の目的にしてはならないものだけど、誰もが無性に欲しがるものでもある。

良い人間関係も、幸福感も、結果として得られるもので、それら以外の何かもっと重要なものを追求しなければならないような気がする。

だからといって、人間関係を大切にしないということではない。

むしろ、人間関係をあるべき位置に置くことで、更に良い関係が築かれてゆくのだと思う。

 

以前、暇なときに、ラジオの人生相談を聞いていた。

ある人の家庭の問題だけれど。具体的には忘れたけど、専門家が興味深いことを言っていた。

子供の時に家庭に問題があると、大人になって過度に家庭の幸福を求め、逆に家庭を破壊する傾向がある。

何が問題なのか。

幸福の押し付けなのかも知れない。家庭はこうあるべきだという概念が強いと、相手に対してこうあるべきだという考えを押し付ける。

 

もうひとつ、地域社会の結びつきが弱いところだけではなく、強い地域も自殺者が増える傾向があるらしい。結びつき方に問題がある。個人の自由がない結びつき方だと、結びつきがストレスになるのだろう。思うに、各人が、個性や、信条を制限される結びつきなど、本当の意味で、強い結びつきではない。嘘で固めた人間関係という。

 

家庭もそうだ。平和もそうだ。戦争がなければ平和ということではない。

個人が安心して、素直に、正直に個人を表現できない平和など、平和ではない。ただ、死なないで生きているだけの人生は、安全な人生ではない。

幸福や、友情が、人生の目的になり得ないのは、そのことと似ている。

本当の友情は、喧嘩をしない関係のことではないし、自分や友人に嘘をついて守るものでもない。

何かもっと、別の目的が必要なのだと思う。

 

 

 

感謝

いつも、書きたいことを書いて、言いたいことを言っている私です。毎回記事を投稿する度に、こんなこと言ったら、嫌われるかななんて、半分思っています。

書きたいことを、思いっきり書いた後に、いただく、スターを見て、とても慰められます。読者は少ないですが、コメントしてくれたり、星をくれたり、購読してくれる人々、一人一人に、深く、感謝してます。

ありがとう。