From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

怒り

私は怒りを内に抱いている

一時は消化したものの

まだ紙などがくっついてこようものなら

再び炎があがるだろう

クスクスとくすぶっている

早く燃え尽きてしまえばいい

雨でも降って

消えてしまえばいい

水でびしょびしょになって

フニャフニャになればいい。

何に怒っているって?

それは言えない。

 

でも、なによりも、

怒りを秘めた

自分が情けない。

 

あー孤独だ。

 

 

クジラ 

クジラ

 

地球の表面で

ケチな嘘をつく

人間を尻目に

海の中では

大きなクジラが

ゆうゆうと

あくびをしている

 

きょうも

あしたも

極大サイズの口を開けて

極小のプランクトンを食べ

時々表面に出ては

高く高く潮を吹く

 

ケチな嘘と

マヌケな規則

それに苦しむ

小さな人間は

大きな野望を胸に抱え

小さなあくびをする

 

クジラのしゃっくりが

地を揺らす

クジラのため息が

大風となる

 

そんなことも知らず

クジラはゆうゆうと泳ぐ

野心も競争心もない

クジラの心は

自分の影響力には

無頓着だ

 

人は時々、単純なものを、単純というだけで受け入れない

物事そんなに簡単じゃないと、誰かが言っているの聞いたことがあるだろうか。

ある人々は、物事を単純化するために、一定のカテゴリーに仕分けし、細かい部分を無視してしまう。

しかし、世の中には、非常に基本的で、単純な概念も確かにある。

物事の真偽を決定するのは、物事が単純か複雑かではない。

人気のある概念かどうかでもない。

時には、多くの人が拒否反応を起こすような真実もあるかも知れない。

歴史を見れば、すぐわかる。各国の様子を見れば、すぐわかる。

 

きょうはこれだけ。つかれた。

 

あいというとうえお

「あい」と言うと「うえお」を付け足す人がいる。

本当は「愛してる」と言いたいのに。あいうえおじゃ、意味通じないじゃん。

「あい」というと「憎しみ」と理解する人もいる。

天邪鬼だね。

「あい」というと「たた」と感じる人がいる。

「あいたた」で。「どうしたの?」と心配する。

「あい」というと「ろんかけて」と言われると思う人がいる。

私がアイロンがけ嫌いなの知っている人。

「あい」というと「あり」と聞き間違える人がいる。

何を考えているのやら。

「あい」と聞いて「あい」とだけ聞いたとわかる人がいる。

私はそうなりたい。

それで、「何がいいたいの?」と質問する。

 

人の話は、最後まで聞かないとわからない。

 

可愛いミニクーパーが病気

私の可愛い、青いミニクーパーが、ギアボックスの病気にかかり、BMWのディーラーに入院中。

お金もすごく掛かりそう。嫌だなあ。

金曜日には修理できるというけれど、本当かなあ。

息子は、歩くと30分かかる道のりを、バス停まであるかないといけない。

あーこまったな。可哀想に。

こちらでは、代車がないのですよ。

Intellectual Sadness

Intellectual Sadness

 

Intellectual sadness reveals

The pit of death

Ugliness of people

Facts but not hope

Just another type of ignorance

For filling the emptiness in your heart

 

Go mad!

Hide behind lies!

Deception eases your heart

that is weary to its depth

 

 

By Felicia Jarvis

3rd October 2017

でも空はいつでも美しい

人々が戦っているその背景に、美しい山々や、海が広がっていることがある。

何でこんな美しいところで、人を殺しているのだろうか。

何時も、物事の裏側や、後側を見ようとする癖があって、銃声が上がる画面でも、後ろの景色を見ている。

 

そして、そこが平和だった時のことを想像してしまう。

 

戦地に家が建っているのを画像で見ると、この家をその家族がどんな気持ちで建てたのかとか、子供の遊び場があれば、子どもたちが遊んでいるところを想像する。

暖かい家庭を作ろうと、親は一生懸命働いて、気持ちのいい家を家族に提供する。

 

児童虐待もそうだ。小さな子どもたちが、親の手で無残に殺されているけど、子どもたちの名前を見て、親が、どんな気持ちで、子供の名前を決定したのか、幸せでいて欲しいと思ってつけたかも知れない、と、ニュースの報道の時に考える。その子の着ている洋服は、お母さんが店で見て可愛いと思って、買ってあげたかも知れない。暴力は、頻繁に起こる親の一時的な逆上かも知れない。

 

なんて虚しいのだろう。

人間は自分のしたくない悪を行うと、使徒パウロが、正しいことを行うための自らの闘いについて、ローマ書の中で述べている。

しかし、情状酌量したくないほど、ひどいことを人間は行う。その一方で、わずかばかりの愛情が、隙間から、ちょっと覗く場合がある。

 

沖縄のある高校の生徒による、集団暴力事件。数人で、一人の生徒を殴ったり蹴ったりし、殺してしまった。しかし、途中で、被害者も含めて、一休みし、ジュースを飲んでいたというではないか。

 

誰が、どこまで悪いのか、心底悪いのか、それとも無知なのか、幼稚なのか、何も考えていないのか、悪魔のように悪いのかなんて、表からではわからないが、人間の残虐行為は、有史依頼、ずっと継続している。

たちの悪い残虐さは、異常な人々ではなく、非常に一般的な人々が示してきた。

その一つの例が、全体主義的残虐さで、これは、今も、子どもたちの間でも、実践されている。

 

でも空はいつも美しい。