From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

日本で髪が茶色いという意味

娘は、当然、イギリス人と日本人のハーフなので、髪が茶色いのですが、中学の時に、髪を黒く染めるように学校側から言われました。

 

https://mainichi.jp/articles/20171028/k00/00m/040/158000c

肌の色で人間を差別してはいけないと世間では言いますが、髪の色で人間性を判断するなら、こういう世間を、子供たちはどう理解し、何を学ぶことになるのでしょうか。

 

もっと重要なことを教えないといけないんじゃないですか。

言っていることと、やっていることが全く矛盾していても、それに気が付かない、鈍感な日本の学校社会。

 

 

 

一人の人間が経験できること

一人の人間が経験できることは、世の中で起きていることの何兆分の一ぐらいだろうと思う。いや、もっと天文学的数字が、分数の分母に来るのだろう。

100年200年生きても、知らないことだらけだろう。

 

だから、経験に頼ってはいけない。いくら苦労しても、何一つ解ってないって思わなくっちゃいけないのだと思う。

 

自分だけじゃない、人間の言うことは、たくさん間違えが含まれている。それは当然のことだ。

 

それは時々面白いけど、時々嫌になる。

 

人間性の崩壊ってよく言うけど、崩壊する前の人間性とはどんなものか、私は知らない。ただいえることは、歴史のどの時点においても、その時に生まれてきたかったなんて時代は、私にはない。女性は昔から差別されていたし、人間はずっと、頭が固くて、理由もなくいろいろなことを信じ、他人を拘束してきた。

昔から嫌な社会だったんだ。

 

人間の歴史がどんなに長くても、私たちが知ることができるのは、海の水すべての中の、ほんの一滴だ。

 

 

 

 

仕事に追われ

仕事に追われ、

落ち着かない

だから、

しばらくは

大したことが

頭から出てこない。

 

仕事がなくても、

大したことは

頭から出てこないけど

 

いろいろやりたいことも、

しばらくできませんよ。

 

ですから皆さま

お元気でお過ごし下さいませ。

 

今日は22年目の結婚記念日です。

お金がないので、大したことはしません。

 

ごきげんよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

交通局の前で―語学学習論

夫の運転免許証の切り替えのため、交通局に赴いたのだが、通訳として、友人が来てくれた。その前に、夫のクリニックの予約があったので、約2時間ぐらいの時間が空いた。カフェで座っていたら、友人が約束の時間一時間も前にカフェの前を通りかかり、3人で話をした。

彼は、イギリス人だが、スペインは長く、ほぼネイティブ並みにスペイン語を話す。

仕事は英会話教師。

英語学習論を3人で論議していたが、3人でまったく意見が一致した。

夫は、ケンブリッジ大学の英語を外国語として教える資格を持っているが、文法を説明して教える方法は、一切コースにはなかったと言っていた。実際は、文法を教えているのだけれど、教わっているという気がしないのはなぜか。

友人は、スペイン人に英語を教えているが、辞書はとにかく、全部解らなくてもいいから、英英辞典を使うように指導している。言葉の意味だけをとらえるのではなく、複数の意味から把握できる、本当の意味をつかむように指導すると言っていた。スペイン語と英語でも、本当の意味で翻訳することは難しいので、日本語と英語は、もっとそうだ。だからこそ、日本語の場合はなおさら文法や辞書だけに頼ってはいけない。

夫の日本での英語講師の経験や、友人の経験から、今まで自分が感じた、英語学習の在り方に対して確信が強まった。その確信は強まったが、英語にはまだ自信がない。学習法がわかっても、学習しないと意味がないということですね。

興味深いのは、友人が話してくれた、手話についてだ。

日本語でも英語でも、世代によって使う言葉が違う。手話も例外ではないようだ。若い人々は、自分たちの方法で、手話を発展させて、ほかの世代には理解できない言葉を使っているらしい。人間が言葉を変えてゆく。

このことは、文法が先に来るのではなく、文法は、自然に発達してきた言語を、合理的、組織的にわかりやすくしたものであること、また文法に依存した言語学習の問題点をはっきりさせるものだはないだろうか。

 

どちらにしても、人間は極端から極端に走る。文法学習を効果的にバランスよく取り入れた方法で、合理的に、また柔軟に学習を進めたいものだ。

 

 

 

てねりふぇのPC Shop

もう新しいPCが必要だと思った。Windowsは嫌いだけど、仕事上どうしても必要だ。仕方がないと思った。

PCショップへMacのパワーアダプタとPCを買いに行った。

Windows8以降はマルチランゲージシステムのはずだから、スペイン語の仕様でもいいかと思った。

Macのアダプタは、おなじMacBookでも、時期が違うと使えない。それで、店員に聞いて、購入した。

PCはACERの400ユーロほどのもの。Windows10付き、それで、そのインストールの時に、MS Officeもインストールして、英語に設定を変えてもらうようお願いした。いいよ!という明るい返事が返ってきた。1時間か2時間後ね!なんて言って、2時間後まだ30%。

息子のお迎えがあるからいったん家に帰った。それで、家でMacのアダプタ使おうとしたら、全然入らない。タイプを間違えたようだ。

4時ごろまた車を走らせて行ったら、もうその店員はいない。アダプタの取り換えで、「もうビニール取ったら本当は返品できない。」なんていうから、お宅の店員が間違えたのだと言って、正しいタイプに交換してもらった。

さて、インストールはまだ40%。1時間か2時間なんて言ってたよと文句を言ったら、6時間は普通だそうだ。謝りもしない。仕方がないと家に帰る。

6時半、インストール終わった連絡を受けたが、予定があるので、明日ねってことになった。

翌日朝の10時、さっさとPCを受け取って、かなり遅れている仕事をしないといけない。

Windows10はインストール済み、それだけだ。

Officeは?言語の変更は?

それは別サービスだと抜かした。

なんで店員は調子よく、いいよなんて言ったんだ!1時間2時間と言ったんだ。

英語のほとんどわからない店長に文句を言った。忙しいのよ。だから頼んだのに。

あーあ、と思って店を出て、自宅でOfficeをインストールし、OSとOfficeともども言語の変更をした。

いい加減なことをいう人たちだ。まったく。

終わった時には4時、もう仕事はしたくないと思った。

 

家族を持つということとは本当にどういうことか

DVというのは、密室の暴力で、なかなか表面化しない。蟻も殺さないような優しい人間が、家庭という密室の中で、情け容赦のない虐待者となる。その犠牲者が外に助けを求めても、誰も信じてくれないどころか、犠牲者本人が悪いのだと非難される。虐待者は、暴力を振るうだけ振るった後、毎回泣きながら謝罪する。もう二度と、そんなことはしないと。そうして虐待を繰り返す。

DVを目の当たりにして育った子供は、それが自分の愛する者への愛情表現なのだと、知らず知らず理解してしまう。こうして、DVは、親から子供へ受け継がれる。その鎖を断ち切るには、知識と、努力が求められるが、多くの場合、失敗に終わる。

 

家族を維持するということが、だんだん難しくなっている。

人間はだんだん、精神的に弱くなってきている。そういう人間は、自分の非を受け入れることができず、常に自分の周囲に変化を求めることで、物事を改善しようとする。

結婚をして、子供を持ち、幸せに生きたいというのは、多くの人が考えていることだけど、家庭や結婚には、本当の幸せの鍵はないと思う。そういう幸せを求めて結婚すると、まず、家族を不幸にすることが多い。幸せになれないのは、自分のせいではなく、配偶者のせいだと考える。

この人と結婚したら、私は幸せになるなどと考えるのは、不幸の始まりだ。利己的で、自己中心的だ。こういうことを考える人間とは、絶対に結婚しないほうが良い。

 

結婚は、互いが配偶者のために何かしようと心に決めて行うべきだと思うけど、独身を通せれば、それのほうがいいと私は思う。人間は、他の人と平和に暮らすのが難しいほど、本当に弱くなっているからだ。

結婚相手を紹介したがるおせっかいな人もいるけれど、そういう人は、重い責任をになっていることを自覚して、行動してほしい。もしくは、そういうことはもうやめたほうがよいと思う。

 

結婚するなら、そういうすべてのことをわきまえたうえで、決定すべきだと思う。

不幸論

お風呂場の壁の崩壊、排水口の詰まり、車の故障、夫のMacの電源アダプターの破損、私のPCでは、仕事のファイルが開けないことで、新しい WindowsPCを購入すること、夫の体調がすこぶる悪いこと、仕事が超遅れていること、人間関係の厳しさ...嫌なことをあげればきりがない。

一日一日、私なりなりに必死で生きている。しかし、世の中には、私の数万倍はひどい目にあっている人も大勢いる、というかそういう人たちのほうが多いのだろうと思う。

それは決していいことではない。

よく、人間には悪いこともおこらなくっちゃいけないんだと言って、世界の諸問題を必要悪のように言う人間もいるようだけれど、そもそも、生まれてすぐに、何の機会も与えられずに殺されてゆく子どもたちの不幸は、その子供にとって、なんの意味があるのだろうか、社会の残りの人たちのため子どもたちは犠牲になっているのだろうか、なんて思う。そういう、悪もなくっちゃ論を宣う人々は、よっぽど不幸というものを経験したことのない、想像力に欠けた人間なのだろうと思う。

そういう人間が、15年ぐらい前には、平和の国日本には、わんさかいたものだ。今はどうか知らない。

人間に必要な、ポジティブな結果をとなるような、訓練を兼ねたような不幸とは種類が違う。そういう苦労は、買ってまでもしろと、昔の賢人たちは言うが、私もそれには同意する。しかし、どうしようもない不幸が振りかかる人も世の中には大勢いるのだ。

 

宗教は、弱い人間が、問題が起きた時に頼るものなどと主張する人間にもたくさん出会った。本来宗教というものは、厄除とか、家内安全とかを目的にするものではない。それに、自分が強いと思っている人間ほど、いざとなると、臆病な態度を見せるものだろうと思う。自分の都合の良い時だけ、目先の益だけを求めて何かを信じるなど、信仰でも何でもない。立派な宗教者というものは、自分の立場が危うくなっても、命が危うくなっても、信仰を突き通すものなのだ。

 

で、自分は不幸かというと、実はすごく幸福だ。家族がいるからじゃない。スペインに住んでいるからじゃない。特に、身体的に問題がないからでも、食べるものや住むところがあるからじゃない。ともだちがいるからじゃない。私には、希望があるから幸福だと思う。

また希望については、いつか書こう。

だから、私が恐ろしく暗い詩を書いても、記事を書いても、決して私を助けてあげようなんて、考えなくていい。自分も含めて、人間は、究極的には、人を助ける能力はないと思っている。

一時的な、慰めを与えることができても、根本的な解決は、人間の能力を遥かに超えた力が必要だ。

私の希望は、それに関連している。