From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

納得するとは コミュニケーションと信頼関係

誰かが何かを言った時、納得するまでつきあってくれる人があまりいない。通常は、途中で話が終わる。こちらとしても、相手が引き下がってしまえば、仕方ないと思う。

何かを信じる際に、証拠となるものがたくさん必要な人と、そうではない人がいる。

人によっては、明らかに不十分な証拠で、とんでもないことを信じる。それは、その人が、それを信じたいという気持ちが強いのもある。

ある人は、明確な証拠が積まれても、信じない。それは、信じたくないのかもしれない。

どちらの極端をも避けるには、自分が何を信じたいとか信じたくないとかを、意識して、それに、惑わされることなく十分な証拠を吟味することしかないように思う。本当のことを知りたいという、強い願いがないといけない。

たとえそういう感情を制御しても、それでも人によって、納得するための証拠の量は変わってくると思う。

その人の知識や経験、思考方法も、要因の一つだと思う。

納得が出来るまで、物事のやり取りが出来たら、どんなにいいだろう。そういうコミュニケーションは、信頼という土台がなければ、成り立たない。つまり、もし、どちらかが、話し合う前から、相手を悪いと断定して話すならば、これは成り立たないということだ。こういうやり取りが、実に多い。子どもと大人の話し合いなど、どちらか一方が明らかに立場が低い場合は特にそう言える。大人は、自分のほうがものを知っているから、自分の意見を子供に受け入れさせることばかりを考える。

それでは、子供が何を考えているのかすらもわからず、コミュニケーションは成り立たない。これは典型的な例だけど。

つまり、信頼関係がないところに、本当の意志の疎通はない。

現代は、人を疑うことばかりが強調されている。でも、どんな底辺にいる人間も、信頼されることを必要としている。

人をむやみに信頼すると、ひどい目に合うのだけれど、必要な用心深さと、人を信頼することは両立が可能だと思っている。