国への愛と人間への愛は両立するか
日本の良さをもっと知るべきだ。
日本人であることに誇りを持つべきだ。
という言葉を聞くと、大勢の人が、そうだ、そのとおりだと考えるのかもしれない。
そして、アメリカ人も自分の国に誇りを持っているじゃないかと、
西洋かぶれの私に訴えかける。
なぜ日本国民であることに誇りを感じるのかと尋ねると、
日本人は平和的で、頭もいいと、答えるだろう。
本当かな。
日本の文化の美しさなんかも、自慢のネタかもしれない。
その上、礼儀正しくて、親切とくれば、言うことなし。
私は、日本文化が好きでたまらないという人、日本人が好きでたまらないという人に対し、特に異論はない。
しかし、日本の国を愛するということは、いったいどういうことか。国をどうやって愛するのだろう。その国に住んでいる人を愛するというのは解る。でも、国とはいったいなんだろう。
お国のために、死ぬということはどういう意味だろう。お国の人々のために、死ぬこととは違う。あの当時は、天皇陛下のために死ぬことがお国のために死ぬことで、その人たちの死は、人々に悲しみしか与えなかった。特攻隊は戦争の勝ち負けに、どう影響しただろうか。特攻隊員は、「天皇陛下バンザイ」ではなく「おかあさーん」と叫んで死んでいったと誰かが言っていた。本当にそうか、死んだ本人たちにはもう確認できないことだけど。国を愛することには、無理がある。それは、実体が、よくわからないからだ。
自分の街が一番と皆思っていたら、それは事実としては成り立たない。自分の街の人たちが好きだ、自分の街の景色が好きだ、何よりも好きだ。それは親近感があるからだ。だったら、大いに理解できる。でも、「自分の町の人々が一番いい人」だったら、それは事実ではない。
国家主義は巧みに実体を偽り、平和や愛という外観を保っているけれど、結果的には、世界平和は、国家主義がはびこるかぎりは、達成不可能だと思う。そして、国家主義は、人間の努力では、もう、取り除くことはできないものとなっている。
まず、そんなことを努力する人は誰もいない。