From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

ダニエルがライオンから保護された時に学べること

ダニエルは、バビロンの賢人たちから、妬まれていた。それで、賢人たちはなんとかダニエルを始末したいと思っていた。ダニエルが何か少しでも悪いことをしないかと始終観察して、ダニエルを逮捕する機会を探していたが、見つからなかった。

それなら、何かダニエルの神の法と相反する法律を作ればいいと、名案が浮かんだ。

30日間の間、王以外の神々に崇拝するものを処刑させる法を作ればいいのだ。

その法律ができても、案の定、ダニエルは、窓を大きく開いて、神に祈りを、堂々と捧げたので、捕まってしまった。

王はダニエルを尊敬していたので、本当はとてもつらかったが、一旦作った法を、王でさえも、変えることができなかった。しぶしぶと、ダニエルをライオンのたくさんいる穴に入れた。

しばらくして王はダニエルがどうなったか気になって、見に行った。

ダニエルは、無事だった。

その時のダニエルの言葉が以下である。

Daniel 6:22King James Version (KJV)

22 My God hath sent his angel, and hath shut the lions' mouths, that they have not hurt me: forasmuch as before him innocency was found in me; and also before thee, O king, have I done no hurt.

 

ここで注目したいのは、ダニエルが何を喜んでいるかということだ。上の聖句を見て、判断できるだろうか。

命が助かったことそのものよりも、彼にとって重要なことがある。「 forasmuch as before him innocency was found in me; and also before thee, O king,

つまり彼は、神に対して罪をおかさなかったこと、王に対しても何も悪いことを、神の目から見ても行わなかったことが、証明されたことを喜んでいるのだ。

まず、ひとこと釘を刺さないといけないのは、神は、自分の信者をいろいろな物理的な危険から、奇跡的に助けることは保証していない。聖書全巻が揃う前は、奇跡が、神の力を証明するために行われたが、聖書全巻が揃った現時点では、こうした神からの特別な奇跡の役割は終わったのだ。詳しいことはまたいずれ説明したい。

 

ダニエルの神との関係は、単に神から益を得るためではなく、愛し合っている関係だった。神を悲しませたくないという思いが、ダニエルにはあった。宗教者の多くは、神からの益は願うけれど、自分が神を裏切ったり、悲しませないようにしようと決意が欠けているのかもしれない。愛情の相互関係がないのだ。愛は求めるけれど、自分が愛そうとはしない、そういうのを、人間関係でも見ることが多い。そういう人は、神に対しても、そうなのだろうと思う。

 

命をかけて、神のために戦っている人も大勢いるじゃないかって思う人もいると思う。

本当に神のためだろうか?

そんなに神を愛しているなら、聖書やコーランなどの聖典をしっかり読んでいるのか。その信ぴょう性を、きちんと確認しているのか。僧職者の言っていることを、丸呑みしていないか。単に親の信条を継いでいるだけだろうか。神ではなく、そこにいる人間に惹きつけられているのか。

自分の信じている宗教は、政治家の野望や、商売人の利益のための道具となっていないか?

神に何を求めるのか。なぜか。

こういう質問を、ぜひ投げかけて欲しい。

 

ダニエルの信仰は、御利益を求めた、利己的なものではなかったことは確かだ。