From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

モスクの前で

モスクの前で、14歳の少年が、何箇所も刺されて、重体となっている。イギリスでの出来事だ。

お父さんは、モスクの前に彼をおいて、車を駐車させていた時だった。

私には13歳の息子がいる。

本当に気の毒だと思う。辛いなんていう言葉もでないほど、胸が押しひしがれていることだろう。

 

近頃、テロアタックなるものも頻繁になり始めている。しかし、イスラムの国でも、毎日普通の人々が殺されている。それから逃れるために、国を渡るが、その時にも多くの人が死んでいる。それから、無事に国を渡れても、イスラム教徒に対する差別に耐えなければならない。

 

私はクリスチャンだけど、キリスト教の神は、敵をも愛せよと言わなかったろうか。迫害するものために祈れと言わなかったろうか。ステファノは、自分を、宗教的な反感から石打ちにした人々のために、神に祈らなかっただろうか。これらの人たちは、自分のやっていることを知らないのですと。

 

これは、とても簡潔で、明確な教えだ。その教えに、いろいろな要素が入り込んで、キリスト教国も戦争に参加し、無知な一般市民を、武器産業の利潤追求に利用している。

表では敵同士で、実は裏で、武器産業から来る利益のために、協力しあっているのだろう。

独裁者も、テログループなどの団体も、大芝居の役者たちなのだ。

ついでに言えば、大きな宗教組織は、その劇団のメンバーである。

 

それでも、毎日のように起きる、悲しい事件を、冷ややかな顔をして見ていることは不可能に近い。

世界的で悪魔的な大芝居の中で、知らず知らず役割を与えられる人々は、だんだんエスカレートしてゆく悲劇を演じさせられ、身も心もボロボロになってゆく。そして、そのうちすぐに、その大芝居はクライマックスを迎えることだろう。

 

神はロボットを創造しなかった。たとえ神の創造物が、神の意志とは違うことを信じ、行っても、たとえ神の存在を認めようとしなくても、(これをfree willという)神は、神の創造物、美しい自然や、美味しい食べ物、可愛い動物を楽しむことを、許してくれている。だから、クリスチャンならば、神に見習って、宗教の異なる人々にも、良いことを行ってゆかなければいけないはずだ。

自分が傷つけられても、平和を求めるほどの強い宗教心を持つことができない人々が多い。神のために人を殺すほどの宗教心はあるのだが。

 

物事そんなに単純ではないというだろうか。

しかし、単純で明確なキリスト教の原則を守ることこそ重要で、それは、物事の変化に合わせて、言い訳し、都合の良い解釈をして、人々の受けを狙ったり、耳をくすぐったりするべきではないのだと思う。人間は弱い。だから、原則を曲げるのではない。人間は弱いから、神に力を求めてゆかなくてはいけない。

 

モスクの前で亡くなった息子の両親が、可哀想でならない。

モスクの前で、何を考えただろうか。

なぜ神は、息子を助けてくれなかったと、神に怒りを感じるのだろうか。それとも、神の思し召しと感じるだろうか。それとも、運命と感じるだろうか。それとも、何かもっと別のことを感じるのだろうか。これから、この重荷を背負いながら、どうやって生きてゆくのだろうか。コーランから、そういう悪いことが起きる理由が説明されるだろうか。何らかの希望は持てるのだろうか。

宗教的憎しみは、殆どの場合、宗教とは関係のない、もっと商業的、政治的な目的のために煽られている。宗教的憎しみを煽ると、誰が得するか、考えてみれば良い。ほんの数分検索すれば、すぐにわかることだ。しかし、思ったよりも多くの人が、この大芝居に、催眠術にかかったかのようにのせられてゆく。無神論者でもその例外ではない。ちゃんと、その芝居の中の役割を持っているのだ。

神を信じる人も、信じない人も、盲目的に何かを信じ、周囲にただ流されて生きている可能性がある点では同じだ。