でも空はいつでも美しい
人々が戦っているその背景に、美しい山々や、海が広がっていることがある。
何でこんな美しいところで、人を殺しているのだろうか。
何時も、物事の裏側や、後側を見ようとする癖があって、銃声が上がる画面でも、後ろの景色を見ている。
そして、そこが平和だった時のことを想像してしまう。
戦地に家が建っているのを画像で見ると、この家をその家族がどんな気持ちで建てたのかとか、子供の遊び場があれば、子どもたちが遊んでいるところを想像する。
暖かい家庭を作ろうと、親は一生懸命働いて、気持ちのいい家を家族に提供する。
児童虐待もそうだ。小さな子どもたちが、親の手で無残に殺されているけど、子どもたちの名前を見て、親が、どんな気持ちで、子供の名前を決定したのか、幸せでいて欲しいと思ってつけたかも知れない、と、ニュースの報道の時に考える。その子の着ている洋服は、お母さんが店で見て可愛いと思って、買ってあげたかも知れない。暴力は、頻繁に起こる親の一時的な逆上かも知れない。
なんて虚しいのだろう。
人間は自分のしたくない悪を行うと、使徒パウロが、正しいことを行うための自らの闘いについて、ローマ書の中で述べている。
しかし、情状酌量したくないほど、ひどいことを人間は行う。その一方で、わずかばかりの愛情が、隙間から、ちょっと覗く場合がある。
沖縄のある高校の生徒による、集団暴力事件。数人で、一人の生徒を殴ったり蹴ったりし、殺してしまった。しかし、途中で、被害者も含めて、一休みし、ジュースを飲んでいたというではないか。
誰が、どこまで悪いのか、心底悪いのか、それとも無知なのか、幼稚なのか、何も考えていないのか、悪魔のように悪いのかなんて、表からではわからないが、人間の残虐行為は、有史依頼、ずっと継続している。
たちの悪い残虐さは、異常な人々ではなく、非常に一般的な人々が示してきた。
その一つの例が、全体主義的残虐さで、これは、今も、子どもたちの間でも、実践されている。
でも空はいつも美しい。