表面的な努力論
概して、努力というもので人を判断するのが好きな日本社会は、表面に見えているものだけで、努力の有無を評価する傾向がある。
だから、会社では、「私はこんなにやってます」ということを、大げさに表明し、やる気を見せることが、社会でうまくやってゆくための、コツになっている。
しかし、実は、努力は、実際の実力で、かなりの部分判断できるのだと私は、考える。
私が、かなり独断的に思うのは、
人間はさほど、美しいとか醜いの差もないし、知能の差もない
私は、美しいと言われている人たちと、あまりぱっとしない人たちに、生物学的な相違をそんなには感じない。要は、自分の容姿への関心度、眉毛の書き方、自分の容姿の魅力を把握しているかどうか、そんなところに違いを感じる。
私が思うに、何かの結果をきちんと生み出す人々は、たとえその人たちが、表面的には努力をしていないように見えても、実は努力をしているのだと考える。
生まれながらに持っているものは、どんぐりの背くらべ、そんな程度の差なのだろうと思う。
普段の生活のなかで、ものを見たり、聞いたり、感じたりする時にも、努力ということをしている人と、していない人がいる。努力の方向性を定めるのも、努力がいる。
そういう努力は、「私はこれをしました、あれをしました」とリスト化できるものではない。
たとえかなりの勉強をしていても、それを敢て公表することに抵抗を感じる人も多い。過剰なself promotionをすることは、自分を高めたいという現れだろうと思う。努力の結果は、作品で出す。これが、謙遜の人間のやることだ。
そもそも、努力中心主義の人間は、別のところで怠けている。そして、日本社会の空っぽな、野心家たちの努力の宣伝に、平気で騙される。
作品には、すべてのことがあらわれると私は思う。
美しい物は、努力なしでは生まれない。
美しい物を作る人は、どこかで必ず、人の見えないところで、多くの努力をしているに違いない。そして、努力をあからさまに自慢することを、美しくないと思っている。
美しいというと、限定されてしまうのですが、言い方を変えれば、人の心を打つものということです。
Matthew 6:3(KJV)
But when thou doest alms, let not thy left hand know what thy right hand doeth:
自分が成し遂げたことに注意を払い過ぎると、傲慢になるわけです。
これは、特に苦労した人、何かを成し遂げた人が注意する点だろうと思うのです。