From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

表面的な努力論

概して、努力というもので人を判断するのが好きな日本社会は、表面に見えているものだけで、努力の有無を評価する傾向がある。

だから、会社では、「私はこんなにやってます」ということを、大げさに表明し、やる気を見せることが、社会でうまくやってゆくための、コツになっている。

しかし、実は、努力は、実際の実力で、かなりの部分判断できるのだと私は、考える。

私が、かなり独断的に思うのは、

人間はさほど、美しいとか醜いの差もないし、知能の差もない

私は、美しいと言われている人たちと、あまりぱっとしない人たちに、生物学的な相違をそんなには感じない。要は、自分の容姿への関心度、眉毛の書き方、自分の容姿の魅力を把握しているかどうか、そんなところに違いを感じる。

 

私が思うに、何かの結果をきちんと生み出す人々は、たとえその人たちが、表面的には努力をしていないように見えても、実は努力をしているのだと考える。

 

生まれながらに持っているものは、どんぐりの背くらべ、そんな程度の差なのだろうと思う。

 

普段の生活のなかで、ものを見たり、聞いたり、感じたりする時にも、努力ということをしている人と、していない人がいる。努力の方向性を定めるのも、努力がいる。

そういう努力は、「私はこれをしました、あれをしました」とリスト化できるものではない。

たとえかなりの勉強をしていても、それを敢て公表することに抵抗を感じる人も多い。過剰なself promotionをすることは、自分を高めたいという現れだろうと思う。努力の結果は、作品で出す。これが、謙遜の人間のやることだ。

 

そもそも、努力中心主義の人間は、別のところで怠けている。そして、日本社会の空っぽな、野心家たちの努力の宣伝に、平気で騙される。

 

作品には、すべてのことがあらわれると私は思う。

美しい物は、努力なしでは生まれない。

美しい物を作る人は、どこかで必ず、人の見えないところで、多くの努力をしているに違いない。そして、努力をあからさまに自慢することを、美しくないと思っている。

美しいというと、限定されてしまうのですが、言い方を変えれば、人の心を打つものということです。

 

Matthew 6:3(KJV)

But when thou doest alms, let not thy left hand know what thy right hand doeth:

 

自分が成し遂げたことに注意を払い過ぎると、傲慢になるわけです。

これは、特に苦労した人、何かを成し遂げた人が注意する点だろうと思うのです。