From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

不幸論

お風呂場の壁の崩壊、排水口の詰まり、車の故障、夫のMacの電源アダプターの破損、私のPCでは、仕事のファイルが開けないことで、新しい WindowsPCを購入すること、夫の体調がすこぶる悪いこと、仕事が超遅れていること、人間関係の厳しさ...嫌なことをあげればきりがない。

一日一日、私なりなりに必死で生きている。しかし、世の中には、私の数万倍はひどい目にあっている人も大勢いる、というかそういう人たちのほうが多いのだろうと思う。

それは決していいことではない。

よく、人間には悪いこともおこらなくっちゃいけないんだと言って、世界の諸問題を必要悪のように言う人間もいるようだけれど、そもそも、生まれてすぐに、何の機会も与えられずに殺されてゆく子どもたちの不幸は、その子供にとって、なんの意味があるのだろうか、社会の残りの人たちのため子どもたちは犠牲になっているのだろうか、なんて思う。そういう、悪もなくっちゃ論を宣う人々は、よっぽど不幸というものを経験したことのない、想像力に欠けた人間なのだろうと思う。

そういう人間が、15年ぐらい前には、平和の国日本には、わんさかいたものだ。今はどうか知らない。

人間に必要な、ポジティブな結果をとなるような、訓練を兼ねたような不幸とは種類が違う。そういう苦労は、買ってまでもしろと、昔の賢人たちは言うが、私もそれには同意する。しかし、どうしようもない不幸が振りかかる人も世の中には大勢いるのだ。

 

宗教は、弱い人間が、問題が起きた時に頼るものなどと主張する人間にもたくさん出会った。本来宗教というものは、厄除とか、家内安全とかを目的にするものではない。それに、自分が強いと思っている人間ほど、いざとなると、臆病な態度を見せるものだろうと思う。自分の都合の良い時だけ、目先の益だけを求めて何かを信じるなど、信仰でも何でもない。立派な宗教者というものは、自分の立場が危うくなっても、命が危うくなっても、信仰を突き通すものなのだ。

 

で、自分は不幸かというと、実はすごく幸福だ。家族がいるからじゃない。スペインに住んでいるからじゃない。特に、身体的に問題がないからでも、食べるものや住むところがあるからじゃない。ともだちがいるからじゃない。私には、希望があるから幸福だと思う。

また希望については、いつか書こう。

だから、私が恐ろしく暗い詩を書いても、記事を書いても、決して私を助けてあげようなんて、考えなくていい。自分も含めて、人間は、究極的には、人を助ける能力はないと思っている。

一時的な、慰めを与えることができても、根本的な解決は、人間の能力を遥かに超えた力が必要だ。

私の希望は、それに関連している。