幸せになる義務?
励まされたくない時がある。
燃え尽きて、疲れて、何もしたくない時は、「がんばって」って言われたくないかもしれない。
「頑張ったね。よくやったね。」と過去形で、慰めて欲しい。
「ゆっくりやすんでね。」と言う言葉が聞きたい。
無理強いすると、後でたいへんだ。
でも、無理強いしなくちゃいけないこともある。
疲れていても、家族にご飯を食べさせなくっちゃ。
でもなぜ、人は、他の人に「頑張って」と言いたいのだろうか?
なぜ、人に幸せでいてもらいたいと思うのだろうか。
この疑問は、こう考えることも出来る。
例を挙げる。
小さい子供の前で悲しい顔などしていられない。現実を見せてもいいけど、もうちょっと大きくなったら大丈夫かな。
子供は、親が悲しくしていると、自分のせいだと思うことがある。
親が喧嘩しているのも、自分のせいだと思って、罪悪感を募らせることもあるらしい。
どちらかの親が家出すると、自分が悪い子だから家を出て行っちゃったと思うらしい。
だから、親は幸せでないといけない。
人が幸せになるのは、自分だけのためじゃない。
自分を愛する人が切ない思いをしないように、人は幸せになる義務がある。
でも、
幸せは、それを自分だけのために求めると、遠く離れていってしまう。
むしろ、誰かを幸せにすることに焦点を絞ることで、初めて人は幸せになるらしい。
人を励ましたいとか、慰めたいと思うのは、自然の摂理かもしれない。
人を幸せにすることで、自分も幸せになれるから。
敢えて悪く言えば、人の幸せは自分のため。
だから人間が私利私欲の塊となって逆のことをしてしまう傾向も持っているということだ。葛藤が生まれる。葛藤は、長い目で見たらどちらが自分にとって益になるかということを考えることかな。
...まあ、こういう言い方をしてしまうこともできるけど、要は、人間は、他の人を幸福にすることで、初めて幸福になれるということであることには変わりがない。この幸福というのは、本当の意味での幸福で、自分の中の奥のほうで感じる幸福感だと思う。実際に、幸福を感じるには、時間がかかる場合もある。
神様が、人間をこういう風に創ったんだと思っているんだけど。
葛藤は苦しいけど、努力はいつか報われる。保証はしないけどね。
長い目で、自分の人生を見ないとね。
人生って、ごまかしが効くようで、実は効かないから、困っちゃうんだけど。
I took this photo at Pinto Art Museum in Antipolo the Philippines.