沈む人
昨日、日本語の詩を投稿した。
理屈ではなく、自分の頭の中に浮かんでくるものを書き留めた。
それから、自分はなぜそんなことを考えたのだろうと考えた。
その日のうちにすぐにコメントがついた。コメントしてくれたのは、最近このサイトで、短期間にいくつも詩を投稿している人だ。この人も、書きたくて書きたくてしょうがないのだろう。
このサイトはなかなかコメントや得点がつかないけど、コメントしてくれた時には、本当にしたいと思ってしてくれたコメントだということで、とても嬉しい。
ほめことばじゃなくても、批判でもいい。自分の書いたものに、何かを感じてくれたのなら。
怒りでもいい、なにか、帰ってくるものがあれば、嬉しい。
沈む人
海の中にゆっくりと沈んでゆく人
悲しい顔で微笑んで
「あとでね」と見えなくなっていく
私はただ黙ってみている
海の底にはたくさんの人が積み重なり
悲しい顔で微笑んで
「おいで」と手招きをしている
「いや」とこたえる
一人、また一人と、
地上から人々が海に消えてゆく
「まってるよ」
静かに沈んでゆく
ゆっくりと沈んで、底にかさなる
日が沈み、夜がくる。
悲しい微笑みは、慈愛に満ちた月明かりで見えなくなる。
隠された人々は、眠りに落ちる。
私も眠る。
聖書各書の背景の研究について
まず、この研究を日本語でやろうか、英語でやろうか迷った。
聖書は英語を使い、日本語で説明をすることにした。なぜなら、こういう個人で行う聖書研究は、多分あまり日本語で出てないからだ。それに、日本語よりも、英語のほうが、元のヘブライ語やギリシャ語との参照がしやすい上に、解りやすいからだ。英語が聖書の言語ではないということも、踏まえて、読んでゆきたいと思う。
これから行おうとすることは、教理とかを云々するのではなく、聖書66冊それぞれの、背景について把握することを目標にする。それをメインとし、気がついたことや、感動したことがあれば、付加的にそうした情報を加える。聖書は1500年以上かけて完成された。だから、歴史を把握するために、たくさんの情報を見てゆかないといけない。利用できる聖書関連の年表や、概略がたくさんあるのだけれど、いくら読んでも覚えられない。つまり、自分との関わりのないことは、すぐに忘れてしまう。だから、私はここで、自分の生活や、興味深い聖書の言葉にそうした歴史が、どう関わっているのかを探してみたいと思った。
まずは、ホセア書から入りたい。
くじらという詩について
以前に、クジラという詩を書いた。
実はこの詩は、私も自分でとても気に入っている。
きょうある詩に関するサイトをチェックしたら、ある人がコメントを書いていてくれた。
ある節が面白いと、それだけだったが、私はそれがとても嬉しかった。
感動をシェアするということほど、芸術家にとって嬉しい物はない。
例えば絵が売れたとしよう。実は、それがすごく嬉しいわけではない。それが、単に付き合いで買ってもらうなら、私はその絵を、うりたくない。そして、売れてしまうと、結局、その人の家に行かないと、自分の絵は見れないものになる。
不特定多数の人に見てもらうことができなくなる。
やはり、投稿する時は、その内容にふさわしいところに投稿すべきで、付き合いではなく、本当にそう思って書いてくれたコメントはとても嬉しい。 心からのブラボーも嬉しい。
私は、クジラという詩が、自分で好きだ。好きだからこそ、ほかにも、面白いと思ってくれる人がいるととても嬉しい。
たった一人でも。
この詩は、自分では素直にかけた。
そのうち、これを、英語にしてみようと思う。
さて、何のために書いているのか
不特定多数の人間に、
自分は何を
解ってもらいたいと思っているのか。
解ってもらったところで
なにが変わるのだろうか
私のこの世の生活は変わることもなく
世界が滅亡する時まで
続くだけだ
遠く離れた国から
日本に向けて
何を書こうとも
理解などというものや
同意などというもので
お互いに頷き合い
喜び合うことなどは
到底できないだろうね
こうやって書くことで
自分の考えをまとめたり
発展させることはできたけど
それが何になるのだろう
こうやって、 PCに向かって
書いているうちに
美しい日没を見逃してしまったり、
家族とのだんらんを失ってしまったり
何をやっているのだろうか
さて、なぜ私は書いているのでしょうか。
表面的な努力論
概して、努力というもので人を判断するのが好きな日本社会は、表面に見えているものだけで、努力の有無を評価する傾向がある。
だから、会社では、「私はこんなにやってます」ということを、大げさに表明し、やる気を見せることが、社会でうまくやってゆくための、コツになっている。
しかし、実は、努力は、実際の実力で、かなりの部分判断できるのだと私は、考える。
私が、かなり独断的に思うのは、
人間はさほど、美しいとか醜いの差もないし、知能の差もない
私は、美しいと言われている人たちと、あまりぱっとしない人たちに、生物学的な相違をそんなには感じない。要は、自分の容姿への関心度、眉毛の書き方、自分の容姿の魅力を把握しているかどうか、そんなところに違いを感じる。
私が思うに、何かの結果をきちんと生み出す人々は、たとえその人たちが、表面的には努力をしていないように見えても、実は努力をしているのだと考える。
生まれながらに持っているものは、どんぐりの背くらべ、そんな程度の差なのだろうと思う。
普段の生活のなかで、ものを見たり、聞いたり、感じたりする時にも、努力ということをしている人と、していない人がいる。努力の方向性を定めるのも、努力がいる。
そういう努力は、「私はこれをしました、あれをしました」とリスト化できるものではない。
たとえかなりの勉強をしていても、それを敢て公表することに抵抗を感じる人も多い。過剰なself promotionをすることは、自分を高めたいという現れだろうと思う。努力の結果は、作品で出す。これが、謙遜の人間のやることだ。
そもそも、努力中心主義の人間は、別のところで怠けている。そして、日本社会の空っぽな、野心家たちの努力の宣伝に、平気で騙される。
作品には、すべてのことがあらわれると私は思う。
美しい物は、努力なしでは生まれない。
美しい物を作る人は、どこかで必ず、人の見えないところで、多くの努力をしているに違いない。そして、努力をあからさまに自慢することを、美しくないと思っている。
美しいというと、限定されてしまうのですが、言い方を変えれば、人の心を打つものということです。
Matthew 6:3(KJV)
But when thou doest alms, let not thy left hand know what thy right hand doeth:
自分が成し遂げたことに注意を払い過ぎると、傲慢になるわけです。
これは、特に苦労した人、何かを成し遂げた人が注意する点だろうと思うのです。
ハリケーンは遠ざかったーバベルの塔を考える
ハリケーンが遠ざかってくれたおかげで、ここ数日間見られなかった、青空や、テイデ山を見ることができた。
ハリケーンや台風は、海をかき回し、海水に空気を混ぜ込むので、来てくれなくては困るものなのだけれど、自然現象と、都市の構造がうまく咬み合わないと、被害が大きくなる。最近の気象変化は、大きな被害をもたらしている。
地震や台風、火山の噴火などの災害と呼ばれるものは、本来は、地球の維持のために役に立つものだろうと思う。しかし、人間は、そうしたものを十分考慮にいれず、都市というものを築いてきた。
バベルの塔という話は、人間の都市計画は、始まりから既に、大きな問題を抱えていたことを示す。つまり、人間がなぜ、都市に集中するのかという理由を考えると、バベルの時代から、人間は、欲に駆られ、野望を持ち、利己的な利潤追求を始めていたことがわかる。数千年後の現在、深刻な問題が、その結果として現れている。
Hebrew word Babel (βαβὲλ), meaning "confusion"
バベルというのは混乱。
人間のバベルの塔建築の意図は、皆で一つのところに集まり、神に対抗しようと言う試みだった。神は人間の言葉を混乱させた。今まで一つの言葉だったのが、それ以降、幾つもの言語にわかれた。
人間の団結の試みは、全く逆の、分裂という結果を招いた。それは、主に言葉の混乱を通して行われた。ここで、言語というものの重要性が強調されていないだろうか。
言語の分裂は、旧約聖書に使用されていたヘブライ語が理解できなくなるという結果を招いた。一部の、神に忠実だった人々は、そのままヘブライ語を引き継いだのだけれど。
利己的な利潤追求を目的とした人生を非とする旧約聖書の教えが、大多数の人々には理解できなくなった。(その頃は聖書はなく、口伝えの教えだった。歴史は、アダムの書というものが、モーセの時代にあり、それを元に、モーセは聖書を書いた。)神からの疎外、神を信じていない人ならば、宇宙の原則からの疎外と言ったほうが、理解しやすいだろうか。人間は、宇宙の中で、孤立してしまったのだ。だから、その原則に対抗する。
人間の都市計画は災害と呼ばれている自然現象に対抗して行われるが、上のことから、人間の都市計画は、むしろ災害になりうる自然現象と融和して行われるべきではないだろうかと、ハリケーンの遠ざかった空を見て、考えている。
人の口から出る言葉
Luke 6:45(KJV)
45 A good man out of the good treasure of his heart bringeth forth that which is good; and an evil man out of the evil treasure of his heart bringeth forth that which is evil: for of the abundance of the heart his mouth speaketh.
善良な人は、まるで宝の中から良いものを取り出すように、良いことを話し、邪悪な人は、まるで宝の中から悪いものを取り出すように、悪いことを言う。だから、どんなに自分を隠そうとしても、結局は心の中にあるものから、物事を選択して、相手に伝える、つまり、隠し切れないのです。
the abundance of the heart his mouth speaketh.
悪い言葉や、軽薄な考え:
その人が、他のものと一緒にそういう考えを持っている
それらが表現される:
その人は敢えてその心の中から、それを選択して表現している
よく「言葉とは裏腹」というけれど、基本的には、その言葉を敢えて心から取り出すことを行う自分を許容しているということだ。
世の中には、自分の欠点をすなおに認めず、自分を改善する辛さを一生避ける人もいる。そういう人間に限って、他の人には厳しい。また自分の欠点を知っていることを公言して、わかっているけどこれが自分だと開き直る人もいる。時にはそれが非常に謙虚に映るかもしれない。
しかし、謙虚さというのは、そこに改善の闘いがあって初めて存在し得る特質のように思う。
とりあえず、人は、自分以上に自分を見せようとも、自分以下に自分を見せようともすることはできない。言葉の端々や、あらゆる物事の反応の仕方に、その人が本当はどんな人なのかを表す、暗号がたくさん含まれている。
もし、本当に深いものを持っている人であれば、自分の口から深いものがでてゆく喜びを抑えきれないだろう。世の中や、退屈な仕事につかれているからこそ、良い物に触れる喜びをかみしめ、それを他の人と共有することに、安らぎを覚える。
軽薄を装うことはできない。