From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

最近感じる自分に関してまずいと思っていること

毎日、いろいろなことを書き、詩を書き、いろいろなことを観察しているうちに、

自分の中で何かが変わってきた。

いろいろなことを、正確に文章で表現しようと努力していくうちに、

言いたいことをさらに書いてしまうようになった。

これはまずいかな。

少なくとも、オンライン・コミュニティではやっていけない。

 

敵をたくさん作ってしまう性格なのは、昔からからだけど、

とにかくくよくよするくせに、人の顔色をうかがうくせに、

その心配とはよそに、正直にいろいろな言葉が飛び出してしまう。

気が緩むと、半分睡眠状態に入るらしく、

スペルの間違えや、タイポがひどくなるが、

ぽろりと本心を言ってしまうのが一番困る。

 

最近それがよけいひどくなった。

海外ではそれほど問題にならないけれど、

不特定多数の日本人社会では、

人を怒らせてしまう。

 

このブログでも、書きたいことを書いている。

読んで、なんだこれはと思う人もいるだろうね。

 

ごめんね。

ヤッパマズイカナ。

 

 

クジラという詩に対するあるコメント

実に嬉しいコメントを頂いた。

http://www.totalcreators.jp/cgi-bin/shi/bright.cgi?log=&key=20171009043132&action=html2

 

私がこの詩に試みた意図を、十分に理解してくれる人がいたのは本当に嬉しい。

ここに投稿してよかった。

やはり、そのうちに英語にする。

今は仕事に負われているので、その余裕がないけど。

 

このコメントをくれた人の詩の一つにコメントしたのだけれど、この返事も嬉しい。

http://www.totalcreators.jp/cgi-bin/shi/bright.cgi?log=&key=20171014234131&action=html2

この人は、複雑な心境を、平易な言葉で表している。

 

この点で私の試みと、共通するものがあると思った。

 

沈む人

昨日、日本語の詩を投稿した。

詩/俳句/短歌等 投稿板

理屈ではなく、自分の頭の中に浮かんでくるものを書き留めた。

それから、自分はなぜそんなことを考えたのだろうと考えた。

その日のうちにすぐにコメントがついた。コメントしてくれたのは、最近このサイトで、短期間にいくつも詩を投稿している人だ。この人も、書きたくて書きたくてしょうがないのだろう。

このサイトはなかなかコメントや得点がつかないけど、コメントしてくれた時には、本当にしたいと思ってしてくれたコメントだということで、とても嬉しい。

ほめことばじゃなくても、批判でもいい。自分の書いたものに、何かを感じてくれたのなら。

怒りでもいい、なにか、帰ってくるものがあれば、嬉しい。

 

沈む人

 

海の中にゆっくりと沈んでゆく人
悲しい顔で微笑んで
「あとでね」と見えなくなっていく
私はただ黙ってみている

海の底にはたくさんの人が積み重なり
悲しい顔で微笑んで
「おいで」と手招きをしている
「いや」とこたえる

一人、また一人と、
地上から人々が海に消えてゆく
「まってるよ」
静かに沈んでゆく
ゆっくりと沈んで、底にかさなる

日が沈み、夜がくる。


悲しい微笑みは、慈愛に満ちた月明かりで見えなくなる。
隠された人々は、眠りに落ちる。
私も眠る。

聖書各書の背景の研究について

まず、この研究を日本語でやろうか、英語でやろうか迷った。

聖書は英語を使い、日本語で説明をすることにした。なぜなら、こういう個人で行う聖書研究は、多分あまり日本語で出てないからだ。それに、日本語よりも、英語のほうが、元のヘブライ語やギリシャ語との参照がしやすい上に、解りやすいからだ。英語が聖書の言語ではないということも、踏まえて、読んでゆきたいと思う。

これから行おうとすることは、教理とかを云々するのではなく、聖書66冊それぞれの、背景について把握することを目標にする。それをメインとし、気がついたことや、感動したことがあれば、付加的にそうした情報を加える。聖書は1500年以上かけて完成された。だから、歴史を把握するために、たくさんの情報を見てゆかないといけない。利用できる聖書関連の年表や、概略がたくさんあるのだけれど、いくら読んでも覚えられない。つまり、自分との関わりのないことは、すぐに忘れてしまう。だから、私はここで、自分の生活や、興味深い聖書の言葉にそうした歴史が、どう関わっているのかを探してみたいと思った。

 

まずは、ホセア書から入りたい。

くじらという詩について

以前に、クジラという詩を書いた。

実はこの詩は、私も自分でとても気に入っている。

きょうある詩に関するサイトをチェックしたら、ある人がコメントを書いていてくれた。

ある節が面白いと、それだけだったが、私はそれがとても嬉しかった。

 

感動をシェアするということほど、芸術家にとって嬉しい物はない。

例えば絵が売れたとしよう。実は、それがすごく嬉しいわけではない。それが、単に付き合いで買ってもらうなら、私はその絵を、うりたくない。そして、売れてしまうと、結局、その人の家に行かないと、自分の絵は見れないものになる。

不特定多数の人に見てもらうことができなくなる。

 

やはり、投稿する時は、その内容にふさわしいところに投稿すべきで、付き合いではなく、本当にそう思って書いてくれたコメントはとても嬉しい。 心からのブラボーも嬉しい。

私は、クジラという詩が、自分で好きだ。好きだからこそ、ほかにも、面白いと思ってくれる人がいるととても嬉しい。

たった一人でも。

 

この詩は、自分では素直にかけた。

そのうち、これを、英語にしてみようと思う。

 

さて、何のために書いているのか

不特定多数の人間に、

自分は何を

解ってもらいたいと思っているのか。

解ってもらったところで

なにが変わるのだろうか

 

私のこの世の生活は変わることもなく

世界が滅亡する時まで

続くだけだ

 

遠く離れた国から

日本に向けて

何を書こうとも

 

理解などというものや

同意などというもので

お互いに頷き合い

喜び合うことなどは

到底できないだろうね

 

こうやって書くことで

自分の考えをまとめたり

発展させることはできたけど

 

それが何になるのだろう

 

こうやって、 PCに向かって

書いているうちに

美しい日没を見逃してしまったり、

家族とのだんらんを失ってしまったり

 

何をやっているのだろうか

 

さて、なぜ私は書いているのでしょうか。

 

表面的な努力論

概して、努力というもので人を判断するのが好きな日本社会は、表面に見えているものだけで、努力の有無を評価する傾向がある。

だから、会社では、「私はこんなにやってます」ということを、大げさに表明し、やる気を見せることが、社会でうまくやってゆくための、コツになっている。

しかし、実は、努力は、実際の実力で、かなりの部分判断できるのだと私は、考える。

私が、かなり独断的に思うのは、

人間はさほど、美しいとか醜いの差もないし、知能の差もない

私は、美しいと言われている人たちと、あまりぱっとしない人たちに、生物学的な相違をそんなには感じない。要は、自分の容姿への関心度、眉毛の書き方、自分の容姿の魅力を把握しているかどうか、そんなところに違いを感じる。

 

私が思うに、何かの結果をきちんと生み出す人々は、たとえその人たちが、表面的には努力をしていないように見えても、実は努力をしているのだと考える。

 

生まれながらに持っているものは、どんぐりの背くらべ、そんな程度の差なのだろうと思う。

 

普段の生活のなかで、ものを見たり、聞いたり、感じたりする時にも、努力ということをしている人と、していない人がいる。努力の方向性を定めるのも、努力がいる。

そういう努力は、「私はこれをしました、あれをしました」とリスト化できるものではない。

たとえかなりの勉強をしていても、それを敢て公表することに抵抗を感じる人も多い。過剰なself promotionをすることは、自分を高めたいという現れだろうと思う。努力の結果は、作品で出す。これが、謙遜の人間のやることだ。

 

そもそも、努力中心主義の人間は、別のところで怠けている。そして、日本社会の空っぽな、野心家たちの努力の宣伝に、平気で騙される。

 

作品には、すべてのことがあらわれると私は思う。

美しい物は、努力なしでは生まれない。

美しい物を作る人は、どこかで必ず、人の見えないところで、多くの努力をしているに違いない。そして、努力をあからさまに自慢することを、美しくないと思っている。

美しいというと、限定されてしまうのですが、言い方を変えれば、人の心を打つものということです。

 

Matthew 6:3(KJV)

But when thou doest alms, let not thy left hand know what thy right hand doeth:

 

自分が成し遂げたことに注意を払い過ぎると、傲慢になるわけです。

これは、特に苦労した人、何かを成し遂げた人が注意する点だろうと思うのです。