辞書や文法書だけではわからない単語のもつイメージ
単語ひとつひとつに、イメージが重なるというのは、日本語でも言えることだと思う。
そこには、経験や、誰かの名前と似たような発音だったり、何かの映画やドラマからのイメージだったり...
大和撫子から、撫子の花や、そういうイメージを持った女優や、知り合いなどの他に、背景にぴったりの、竹林の中の木漏れ日や、着物をきている女性が、しずしずと、城下町を歩いているところを想像したり、大和から、戦艦大和が、宇宙をワープしているところを想像したり、人によってもいろいろな想像をすることだろうと思う。
人それぞれ違うのだけれど、もし、共通の概念や、類似した経験を持っていれば、より、共通のイメージを共有しやすい。住んでいる国が同じだったり、類似した文化背景があればいいが、それがないと、単語の意味や、使い方は本から理解できても、その単語がもつ共通のイメージまでは把握することは非常にむずかしい。
そのイメージの差を少しでも埋めるために、有名な文学や、映画、ドラマ、音楽、絵画の鑑賞が、役に立つかも知れない。しかし、ある一定のレベルの、共通のイメージを持つためには、ものすごい量の情報を消化しなければならない。
単語の意味は、辞書で一瞬のうちにわかるかもしれないが、その単語を読んで、ネイティブたちが一般的に思い浮かべるイメージまでは、わからないかも知れないということだ。
なぜ、それが重要なのか。
そのイメージと、その単語を使用する場面というのが、関連しているということを考え始めた。
よく、英作文で、自然な文章ということを、考える。この判断は、辞書や文法書に頼ることができないのかも知れない。
私は、決して文法を毛嫌いしているのではない。それも重要な勉強だと思っているので、誤解してほしくないけれど、文法書には書いていないことが、たくさんあるということも忘れないようにしたい。
英語の上級者ではあっても、日本人の場合、英語の文法の間違えはないが、何か英作文の自然さにかけるということがある。
自然さがかけるなら、まだ問題は小さい。以前実際に感じたことだけれど、短い英文の文の流れを細かい文法にとらわれて、見失ってしまう上級者を観察したことが数回ある。私は、ちなみに、上級者だとは言えないほど、簡単な間違えやタイプミスをする人間だ。はっきりいって、上級者などとおこがましい事は、とても言えない人間である。それで、翻訳をやっているのだから、すごい。
英文学の理解という点で、作者の意図がわからない、または、話の流れがうまくつかめないのであれば、これは大きな問題だと思う。イメージというのは、非常に重要だ。
英詩では、言葉ひとつひとつのイメージというのが、非常に重要だというのは言うまでもない。
脳に蓄積された情報が、心に達するには、多くの努力が要求される。
単語一つが、心に響くためには、どれだけの時と、努力が必要になるのだろうか。
ラスベガス乱射の疑問点
なぜ、あんなにたくさんの武器が、高級ホテルの部屋に、持ち込めたのだろうか?
某グループのの犯行声明があったらしいが、この団体は、何かあるとすぐ、自分たちがやったと言って、やってもいないことも、自分たちの手柄のように豪語するようだ。
ある女性が、ライブでのインタビューで、目撃者が、コンサートの時に、「皆死んでしまうからここから出ないといけない」と言っていたらしいけれど、ガードが真剣に受け止めず、彼女をコンサート会場から追い出してしまったといっていた。この話はその後、あまりテレビ報道されないし、問題にもされていないようだ。
Woman told people 'they will die tonight' 45 minutes before Las Vegas shooting | Metro News
夫がずっと、ライブでこのニュースを見ていたのだけれど、いろいろ疑問が出るニュースだということだ。腑に落ちないことが多いらしい。
今後の報道の展開がどうなるか、注意したい。
モスクの前で
モスクの前で、14歳の少年が、何箇所も刺されて、重体となっている。イギリスでの出来事だ。
お父さんは、モスクの前に彼をおいて、車を駐車させていた時だった。
私には13歳の息子がいる。
本当に気の毒だと思う。辛いなんていう言葉もでないほど、胸が押しひしがれていることだろう。
近頃、テロアタックなるものも頻繁になり始めている。しかし、イスラムの国でも、毎日普通の人々が殺されている。それから逃れるために、国を渡るが、その時にも多くの人が死んでいる。それから、無事に国を渡れても、イスラム教徒に対する差別に耐えなければならない。
私はクリスチャンだけど、キリスト教の神は、敵をも愛せよと言わなかったろうか。迫害するものために祈れと言わなかったろうか。ステファノは、自分を、宗教的な反感から石打ちにした人々のために、神に祈らなかっただろうか。これらの人たちは、自分のやっていることを知らないのですと。
これは、とても簡潔で、明確な教えだ。その教えに、いろいろな要素が入り込んで、キリスト教国も戦争に参加し、無知な一般市民を、武器産業の利潤追求に利用している。
表では敵同士で、実は裏で、武器産業から来る利益のために、協力しあっているのだろう。
独裁者も、テログループなどの団体も、大芝居の役者たちなのだ。
ついでに言えば、大きな宗教組織は、その劇団のメンバーである。
それでも、毎日のように起きる、悲しい事件を、冷ややかな顔をして見ていることは不可能に近い。
世界的で悪魔的な大芝居の中で、知らず知らず役割を与えられる人々は、だんだんエスカレートしてゆく悲劇を演じさせられ、身も心もボロボロになってゆく。そして、そのうちすぐに、その大芝居はクライマックスを迎えることだろう。
神はロボットを創造しなかった。たとえ神の創造物が、神の意志とは違うことを信じ、行っても、たとえ神の存在を認めようとしなくても、(これをfree willという)神は、神の創造物、美しい自然や、美味しい食べ物、可愛い動物を楽しむことを、許してくれている。だから、クリスチャンならば、神に見習って、宗教の異なる人々にも、良いことを行ってゆかなければいけないはずだ。
自分が傷つけられても、平和を求めるほどの強い宗教心を持つことができない人々が多い。神のために人を殺すほどの宗教心はあるのだが。
物事そんなに単純ではないというだろうか。
しかし、単純で明確なキリスト教の原則を守ることこそ重要で、それは、物事の変化に合わせて、言い訳し、都合の良い解釈をして、人々の受けを狙ったり、耳をくすぐったりするべきではないのだと思う。人間は弱い。だから、原則を曲げるのではない。人間は弱いから、神に力を求めてゆかなくてはいけない。
モスクの前で亡くなった息子の両親が、可哀想でならない。
モスクの前で、何を考えただろうか。
なぜ神は、息子を助けてくれなかったと、神に怒りを感じるのだろうか。それとも、神の思し召しと感じるだろうか。それとも、運命と感じるだろうか。それとも、何かもっと別のことを感じるのだろうか。これから、この重荷を背負いながら、どうやって生きてゆくのだろうか。コーランから、そういう悪いことが起きる理由が説明されるだろうか。何らかの希望は持てるのだろうか。
宗教的憎しみは、殆どの場合、宗教とは関係のない、もっと商業的、政治的な目的のために煽られている。宗教的憎しみを煽ると、誰が得するか、考えてみれば良い。ほんの数分検索すれば、すぐにわかることだ。しかし、思ったよりも多くの人が、この大芝居に、催眠術にかかったかのようにのせられてゆく。無神論者でもその例外ではない。ちゃんと、その芝居の中の役割を持っているのだ。
神を信じる人も、信じない人も、盲目的に何かを信じ、周囲にただ流されて生きている可能性がある点では同じだ。
愛と憎しみの決定的な違い
愛と憎しみの違いは何かなんていうと、まるで、甘いと辛いの違いのように、反対ぐらいに違うのに、変な質問だと思うかも知れない。
だけど、愛と憎しみは関連しているし、表面上似ていることがある。
愛していることから来る、嫉妬などは、どうか。
誰かを愛するゆえに、別の誰かを憎む。または、愛する人から拒絶されて、愛する人を憎むようになるなど、愛と憎しみは、共存している。そして時々、表面的に類似した行動の動機ともなる。
何が愛で、何が憎しみか、明確に答えられる人は、どのくらいいるだろうか。
愛というのは、感情だけれど、理性的な判断が伴って、初めて、その益が効果を表すのだと思う。それに、愛していると、自分で思っているだけならば、その愛する対象には何も影響がない。
愛する子供の喜ぶ顔が見たい。それを、長期的な視野で子供の幸せを願い、そのための行動を起こすためには、そこに、知識や理性に基づいた判断力が必要となる。
知識や理性は、愛という感情によって動機づけられて初めて、有効に働くことができる。
親近感とは切り離して考えたい。
長期的視野での幸福は、現在の苦しみを耐えさせることが伴う場合がある。子供を叱ることは、親も辛いけれど、将来の幸福のためだ。しかし、人間とはずるいものだ。子供を叱るのではなく、親の利己的な怒りを子供に向ける人間が山ほどいる。子供の虐待を、躾といっている人間が多すぎる。親は、子供が反抗することを、自分への拒絶反応と考え、子供の益は無視し、その拒絶に反応してしまうのだろう。愛する者が、自分を拒絶したという、怒りに燃える。
憎しみと簡単に変換されていしまう愛は、実は、本人の欲望だったりする。愛する対象の幸福など一切無視して、愛しているはずの対象を、ズタズタに傷つけることがある。
愛というものから本当に益を受けるためには、知識や理性、自己吟味、セルフコントロールが要求される。情熱的な本物の愛が長期的に持続するには、愛する人が本当に幸福になるために、命をかけることができるぐらいの意気込みがないといけない。
愛は、愛されることを求めることを忘れてしまうぐらい、自分が愛することに没頭しないといけない。
(「いけない」と言う表現は、人に押し付ける意味ではなく、自分に言っています。)
英語は子供っぽいと息子が言ったその真意
息子:英語はなんだか子供っぽいね。
私:どういう意味?
息子:勉強するときも、子供っぽいよ。
私:日本での英語の授業の時?
息子:フィリピンでも、ここでも。
私:アイルランドではどうだった?
息子:もっと、違ってたけど。でも、授業のことだけじゃないんだ。英語で話すと、子供っぽいんだ。
私:じゃあ日本語や、スペイン語は?
息子:やっぱり子供っぽいかな。
私:英語を話す、おじいさんたちは?
息子:...
私:言葉にするとそう思うんだね?
息子;そう。
私;なぜだろうね。
真意はわからなかった。
でも、実際に起きている物事や、心の中の動きを、言葉に表すことが、完全にはできないのだとおもう。
痛い、という言葉を、あらゆる説明と共に誰かに伝えても、その痛みを完全に解ってもらうことはできない。
息子は、自分が言いたいことが、言葉によって完全に表現されていないことを、感じているのかも知れない。なにか、もっと深いことを言いたいのに、言葉にすると、軽くなってしまうと感じているのかも知れない。
できる限り無料でスペイン語を学ぶ
ずっと、スペイン語を基礎から、無料で学ぶ方法を探していた。
それで、最近いいサイトを見つけた。
studyspanish.comこれだ。一つの項目に、説明と、Basic Quiz, Mini Test, Oral 1, Podcast, Quiz 2-4, Oral 2 Test 2, Final とある。そのうち、Basic Quiz, Mini Test, Oral 1,までは、すべての項目で、お金を払わなくても受けることができる。
初めの説明のところが全部OKなので、後は自分で記憶したりしたら、大丈夫だし、その上、説明がとても解りやすい。
初めの1項目目だけはPodcastが聞けるけど、とても良いと思った。記憶の助けになる。
でも、2項目目からは、Podcastが有料なので、これはあきらめることにする。
私のような初心者には、とても良いオンラインコースだ。
ダニエルがライオンから保護された時に学べること
ダニエルは、バビロンの賢人たちから、妬まれていた。それで、賢人たちはなんとかダニエルを始末したいと思っていた。ダニエルが何か少しでも悪いことをしないかと始終観察して、ダニエルを逮捕する機会を探していたが、見つからなかった。
それなら、何かダニエルの神の法と相反する法律を作ればいいと、名案が浮かんだ。
30日間の間、王以外の神々に崇拝するものを処刑させる法を作ればいいのだ。
その法律ができても、案の定、ダニエルは、窓を大きく開いて、神に祈りを、堂々と捧げたので、捕まってしまった。
王はダニエルを尊敬していたので、本当はとてもつらかったが、一旦作った法を、王でさえも、変えることができなかった。しぶしぶと、ダニエルをライオンのたくさんいる穴に入れた。
しばらくして王はダニエルがどうなったか気になって、見に行った。
ダニエルは、無事だった。
その時のダニエルの言葉が以下である。
Daniel 6:22King James Version (KJV)
22 My God hath sent his angel, and hath shut the lions' mouths, that they have not hurt me: forasmuch as before him innocency was found in me; and also before thee, O king, have I done no hurt.
ここで注目したいのは、ダニエルが何を喜んでいるかということだ。上の聖句を見て、判断できるだろうか。
命が助かったことそのものよりも、彼にとって重要なことがある。「 forasmuch as before him innocency was found in me; and also before thee, O king,」
つまり彼は、神に対して罪をおかさなかったこと、王に対しても何も悪いことを、神の目から見ても行わなかったことが、証明されたことを喜んでいるのだ。
まず、ひとこと釘を刺さないといけないのは、神は、自分の信者をいろいろな物理的な危険から、奇跡的に助けることは保証していない。聖書全巻が揃う前は、奇跡が、神の力を証明するために行われたが、聖書全巻が揃った現時点では、こうした神からの特別な奇跡の役割は終わったのだ。詳しいことはまたいずれ説明したい。
ダニエルの神との関係は、単に神から益を得るためではなく、愛し合っている関係だった。神を悲しませたくないという思いが、ダニエルにはあった。宗教者の多くは、神からの益は願うけれど、自分が神を裏切ったり、悲しませないようにしようと決意が欠けているのかもしれない。愛情の相互関係がないのだ。愛は求めるけれど、自分が愛そうとはしない、そういうのを、人間関係でも見ることが多い。そういう人は、神に対しても、そうなのだろうと思う。
命をかけて、神のために戦っている人も大勢いるじゃないかって思う人もいると思う。
本当に神のためだろうか?
そんなに神を愛しているなら、聖書やコーランなどの聖典をしっかり読んでいるのか。その信ぴょう性を、きちんと確認しているのか。僧職者の言っていることを、丸呑みしていないか。単に親の信条を継いでいるだけだろうか。神ではなく、そこにいる人間に惹きつけられているのか。
自分の信じている宗教は、政治家の野望や、商売人の利益のための道具となっていないか?
神に何を求めるのか。なぜか。
こういう質問を、ぜひ投げかけて欲しい。
ダニエルの信仰は、御利益を求めた、利己的なものではなかったことは確かだ。