From Tenerife ・テネリフェから

テネリフェに住む翻訳家の英詩、写真、絵画、音楽、スペイン語など

朝焼けと月光が混じるとき

朝の風景。

これは月です。

ピンクの空は朝焼けです。朝焼けに月が光るということは、今日の月がとても明るいということでしょう。

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今朝、息子をスクールバスのバス停まで送ったその足で、診療所に行った。夫が調子が悪すぎて、医者にも行けない。それでそのことを医者に言ったら、夫は必ず来ないといけないと言われた。当たり前か。

その次に車を飛ばして銀行まで。入金をしてから、カフェで朝食を食べた。私の会計士のところまで車を飛ばし、医療保険会社に必要な書類について、質問した。複雑で嫌になる。もう一度、診療所に戻り、なんとかもっと早い予約をお願いしたが、無理だった。

その後、食料品の買い物をして家にかえり、くたくたになった。

電話でちょっと、病気の夫に八つ当たりして、気分が悪くなっていた。悪い妻だ。かわいそうな夫だった。

家に帰り夫にすぐあやまった。そしたらぎゅっと抱きしめて、すぐに許してくれた。今日は優しいじゃないの。

時々夫が八つ当たりをする。今度夫が八つ当たりをしたら、すぐに許してやろうと今は思っているけれど、その場になってそれができるかどうか、私は知らない。

ブログの復活

某学習サイトの変更により、記事の投稿ができなくなったので、またこのブログで書くことにします。

まあ、いろいろな人を見ました。私としては、良い経験になったと思います。普段、家にいると、いろいろな人が集まる場には縁がありません。私の周囲は、家族と、クリスチャンの仲間と、めったに顔を見ない日本人の友人だけですから。

サイトの終了が、縁の切れ目と言うことで、数人の友人意外とは、もう、言葉を交わすこともないでしょう。それも一つの節目かな。

数人の友人とも、以前のようには言葉を交わすこともないかもしれません。

 

こういう時こそ、自分の時間の使い方を再考して、より有意義な生き方への改善の機会とみなすこととします。

寂しくないというと嘘になりますが、あがきません。

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どんな勉強法をしてゆくか、どこから情報のソースを得るか、この辺をよく考えることとします

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友達をほったらかして

私は時々、友達をほったらかしてしまいます。

以前の友人たちは、私が音信不通になって、どこにいるかもわからなくなっています。

生きているかどうかも、知らないと思います。

とても疲れると、誰とも話したくなくなります。やらなくちゃいけないことも、できなくなります。

一つのことにこだわると、他のことができなくなります。

そういうことです。突然いなくなるかもしれません。

驚異の一点集中型、バタフライヘッドだということです。しかし、本当の意味では、バタフライヘッドではありません。

突然の心境の変化に、自分でも戸惑うことがあります。

それでも、友達のことは忘れません。いつも考えてます。

変な話ですが、私ほど、表向き過去を捨てるようでいて、過去をずーっと引きずって生きている人間は珍しいと思います。

 

本当に良い人間になりたいかどうか

人は良い人間になりたいのか、それとも人から愛されたいのでそうなろうとしているのか。自分の良い人という基準も、人から愛されたいという動機から来る場合と、自分の中に理想がある場合とは、かなり異なってくる。

人から愛されたいという気持ちが強い人と、一緒にいるのは、実はとても大変なことだ。そこで、変な現象が起きる。人から愛されたい人は、すべてをそのために行う。それで、人を愛することを忘れてしまう。愛されたいと思えば思うほど、傷つけられ、傷つける。

 

 

理解ができない事

私には理解ができない事がたくさんある。そもそも自分は、どの程度悪い人間なのか、理解ができない。他の人がいいとか悪いとか、ある意味、どちらでもよいことで、要は自分が、良い人間なのか悪い人間なのかが気になる。

良い人間になりたいと努力していても、どうやら努力の方向性が、他の人とは違っているらしい。

私は、正直でありたい。人が見ていても見ていなくても、嘘はつきたくない。

自分を正当化しようとして、人を悪者にはしたくない。

寛大でありたい。謙遜でありたい。自分の間違えを認め、人の間違えを許したい。

理解のある人間になりたい。競争心のない人間になりたい。

しかし、実際に求められるのは、そういうことではないような気がする。

どちらでもいいけれど、自分の求めてきた努力の方向性を変える気にはなれない。自分が努力したうえで、刈り取る結果であるなら、それを受け入れるしかない。誤解されているとしても、自分を正当化することに、やっきになるのは、間違えている気がするというか、自分の評判よりも、重要なことがたくさんあるのだと思う。

事態をわかってくれる人たちは、私の不器用さにため息をつくけれど、仕方がないことだろうなと思う。

 

 

 

 

 

孤独は愛の表現となった

孤独は愛の表現となった

 

 

かすかな波の音

水上の光の揺らぎ

波泡が砂上で消える

 

古い本の香り

時計が音を刻み

雲は流れる

 

キャンドルを消す

立ち上がる煙

瞳孔が広がる

 

空しさにより

喜びも幻想と変わり

自己の存在のみが強いられる

 

 

冷たく受け入れられ

暖かく拒まれ

孤独は愛の表現となった